▲top

    (へき)(ぎょく)之巻(全文)

 

碧玉之巻〜第1帖  →超訳

反対の世界と合流する時、平面の上でやろうとすれば濁るばかりじゃ、
合流するには、立体でやらねばならん、
立体となれば反対が反対でなくなるぞ、
立体から複立体に、複々立体に、立立体にと申してあろう、
(ぜん)()輪を大きく、広く、深く進めて行かねばならんぞ、
それが岩戸ひらきじゃ、
低い世界は戒律なくてはならんぞ、
人民の頭で、戒律と秩序、法則をゴチャにしてござるぞ、
平面と立体とをゴチャにするのと同じ迷いの道であるぞ、
気つけ下されよ。
()むことは神から白紙の巻物をもらったことじゃ、
この巻物をどんなに読みとるかによって新しき道がひらけるのじゃ。
神からの巻物おろそかにするでないぞ。

 

碧玉之巻〜第2帖  →超訳

気の合う者のみで和してござるなれど、それでは和にならんと知らせてあろうがな、
今度は合わんものと合わせるのじゃ、
岩戸がひらけたから、逆さまのものが出て来ているのじゃ、
この行、中々であるなれど、これができねば岩戸はひらけんのじゃ、
マコトの神さえ魔神のワナにかかってござるのじゃ、
人民がだまされるのも無理ないようなれど、
だまされていては今度の御用は成就せんぞ。
自分自身にだまされている人民も多いのであるが、ついてござれよ、
少しは苦しき行もあるなれど見事なことを致して御目にかけるぞ、
自分でもビックリじゃ、
はじめからの神示(ふで)よく読んで下されよ、
霊かかりよろしくないぞ、やめて下されと申してあろう。

 

碧玉之巻〜第3帖  →超訳

生命(いのち)の樹、生命(いのち)の水を間違えて下さるなよ。
樹とはキであるぞ、
水とは道であるぞ、
樹と水にたとえてあるを、
そのままにとるから、囚われた迷信となるのじゃ。

 

碧玉之巻〜第4帖  →超訳

(まこと)(ざん)()は正法をおさむることであるぞ、
掃除することであるぞ。
まず(おさ)め、次に(おさ)め、次に(おさ)めねばならんぞ、
素盞(すさ)(なる)の大神は先ず滄海原を御め給い、更に蒼海之原を治め給い、
次に天下(あめのした)を知め給うたのであるぞ。
素盞(すさ)(なる)の大神が悪神と映るのは悪がそなたの中にあるからであるぞ。

 

碧玉之巻〜第5帖  →超訳

七は成り、八は開くと申してあろうが、
八の(くま)からひらきかけるのであるぞ、
ひらけると◯と九と十との三が出てくる、
これを宮と申すのぞ、
宮とはマコトのことであるぞ、
西と東に宮建てよと申すこと、これでよくわかるであろうが、
マコトの数を合わせると五と五十であるぞ。
中心に五があり、その周辺が五十となるのであるぞ。
これが根本の型であり、型の歌であり、型の数であるぞ、
摩邇(まに)宝珠(たま)であるぞ、
五十は伊勢であるぞ、
五百は日本であるぞ、
五千は世界であるぞ、
このほう五千の山、五万の川、五億のクニであるぞと申してあろうがな。

 

碧玉之巻〜第6帖  →超訳

(わざわい)というものは無いのであるぞ、
光を忘れ、光に(そむ)くから、イヤなことが起こるのじゃ、
影が差すのじゃ、
(わざわい)とか悲しみとかいう暗いものがないのがマコトであるぞ、
中心は無と申してあろう。
中心は見えんから、わからんから、
外のカスばかり見ているからつまらんことで、つまらんことが起こって来るのぞ、
その見えぬ力が永遠の生命(いのち)と現れるのであるぞ、
見えるものは有限じゃ。
この世の大泥棒をタカヤマじゃと申して、この世を自由にさせておいて良いのか、
元の元の元をよく見極め、中の中の中の見えぬものを(つか)まねばならんぞ、
そこから正さねば外側からばかり清めても何もならん。

 

碧玉之巻〜第7帖  →超訳

始めの日は始めの日に過ぎん、
始めの前にあるものが分からねば、それはただの理屈に過ぎんぞ、
マコトでないぞ、根から出たものではない、枝葉に過ぎん、
男から女は生れんぞ、奇数から偶数は生れんと申してあろうが、
一つのものの表が男であるぞ、裏が女であるぞ、
男から女をつくったと申すのは ある時期における教えじゃ、
岩戸がひらけたのであるから教えではならん、
道でなくてはならんと申してあるぞ、
道は永遠じゃ、
◯から出て◯に至るのじゃ。

奇数から偶数は生まれない。これは素因数分解の話。
大泥棒の理屈=6世紀以降のキリスト教的世界観を代表している。

 

碧玉之巻〜第8帖  →超訳

四つ足を食ってはならん、共喰いとなるぞ、
草木から動物生まれると申してあろう、
神民の食物は五穀野菜の(たぐい)であるぞ。
今の人民の申す善も悪も一度にひらいて、パッと咲き出るのが、
次の世の新しき世の有様であるぞ、
取り違いせぬように、
悪と申しても魔ではないぞ、アクであるぞ。
大峠の最中になったら、キリキリ舞いして、助けてくれと押し寄せるなれど、
その時では間に合わん、
逆立ちしてお()びに来ても、どうすることもできん、
皆 己の心であるからぞ、
今のうちに改心結構、
神の申す言葉がわからぬならば、
天地のあり方、天地の在り方による動きをよく見極めて下されよ、
納得の行くように致して見せてあるでないか。

 

碧玉之巻〜第9帖  →超訳

九分行ったら一休みせよ、
始めから終わりまで休まずに行くと、今の人民では息切れ致すぞ、
一休みして自分の来た道を振り返れよ。
この世の世話をさすために、人民には肉体を与えてあるのぞ、
活神(いきがみ)がしたのでは(こば)れんものがたくさんに出て来るからじゃ、
立て替え、立て直し一時に来ているから、
我よしの人民にはわからんことになるぞ、
この世の動きがわからんのは我よしだからぞ、
今度の岩戸びらきは五度の岩戸閉めを一度にひらくのであるから、
人民には中々に理解できんことに、折り重なって来るから、
何事も神の申す通りハイハイと素直に聞くのが一等であるぞ。

 

碧玉之巻〜第10帖  →超訳

岩戸閉めの始めはナギ(伊邪那岐(いざなぎ)(のみこと))ナミ(伊邪那美(いざなみ)(のみこと))の命の時であるぞ、
ナミの神が火の神を生んで黄泉(よもつ)(くに)に入られたのが、そもそもであるぞ、
十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、
十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、
五つの卵を四つ生んだとも言えるのであるぞ、
すべて神界のこと、
霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、
それでちゃんと道にはまっているのであるぞ。
一ヒネリしてあるのじゃ、
天と地との間に大きなレンズがあると思えば段々にわかって来るぞ。
夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸が閉められたのである道理、
わかるであろうがな。
その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、
それが一方的であることは申すまでもないことであろう、
妻神も同様、黄泉(よもつ)大神となられて、黄泉国のすべてを生み育て給うたのであるぞ、
この夫婦神が、時めぐり来て、千引きの岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、
うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。
同じ名の神が至るところに現れて来るのだぞ、
名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、
この二つがそろって、三つとなるのぞ、
三が道ぞと知らせてあろうがな。
時来たりなば この千引きの岩戸を(とも)にひらかんと申してあろうがな。

次の岩戸閉めは天照大神の時ぞ、
大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、
ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。
いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、そろってお出まし近くなって来たぞ。

次の岩戸閉めは素盞(すさ)(のお)(のみこと)にすべての罪を着せてネの国に追いやった時であるぞ、
素盞(すさ)(のお)(のみこと)天下(あめがした)(しろ)しめす御役の神であるぞ。
(あめ)ヶ下は重きものが積もって固まったものであるからツミと見えるのであって、
よろずの天の神々が積もる(と言う)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤ってしまったので、
これが正しく岩戸閉めであったぞ、
(みこと)をアラブル神なりと申して伝えているなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、
あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、
アラフル(現生る)神であるぞ、
(あま)()(した)、大国土を守り育て給う神であるぞ、
取り違いしていて申し訳あるまいがな。
このことよく理解できねば、今度の大峠は越せんぞ。
絶対の御力を発揮し給う、ナギ・ナミ両神が、
(あま)()(した)()らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。
素盞(すさ)(のお)(のみこと)にも二通りあるぞ。
一神で生み給える御神と、夫婦呼吸を合わせて生み給える御神と二通りあるぞ、
間違えてはならんことぞ。

神武天皇の岩戸閉めは、御自ら人皇を名乗り給うより他に道なきまでの(おん)(はたら)きをなされたからであるぞ。
神の世から人の世への移り変わりの事柄を、
一応、岩戸に隠して神ヤマトイワレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、
大きな岩戸閉めの一つであるぞ。

仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光が差していたのであるなれど、
仏教と共に仏魔渡って来て完全に岩戸が閉められて、
クラヤミの世となったのであるぞ、
その後はもう乱れ放題、やり放題の世となったのであるぞ、
これが五度目の大き岩戸閉めであるぞ。

 

碧玉之巻〜第11帖  →超訳

宇宙のすべてが高天原(タカアマハラ)であるぞ。
天照大神は高天原を(しら)し、また高天原を(しら)し、また高天原を知らす御役、
月読大神は天照大神と並びて天のことを知らし、また「あほうなはら」の汐の八百路を治し、
また夜の()す国を知らす御役、
素盞(すさ)(のお)の大神は「あほうなはら」を治らし、また滄海(あおうな)之原を(しろ)し、
また、天下(あまがした)を知(治)らす御役であるぞ。

 

碧玉之巻〜第12帖  →超訳

(ささ)げるもの、与えるものは、いくらでも無限にあるでないか、
(ささ)げよ(ささ)げよ、与えよ与えよ、(ことば)こそは誰もが持てる其(理)の(ささ)げものであるぞ、
与えても与えても無くならんマコトの宝であるぞ。

 

碧玉之巻〜第13帖  →超訳

まだ◯のみ追っている人民たくさんあるなれど、
◯では世は治まらん、自分自身は満たされんぞ、
ゝでなくてはならん、と申してゝだけでもならんぞ、
ゝが元じゃ、内じゃ、◯は末じゃ、外じゃゝから固めて下されよ、
◯はおのづからできてくる、
ふさわしい◯ができてくるのじゃ、
今の世は(ひら)けた開けたと申しているが、
それは半面だけのこと、
半面が開けると半面が閉ざされる世の中、
開け放しの明るい世が目の前に来ているぞ。
用意はよいか、
真ん中動いてはならんと申してあろう、
動くのは外じゃ、
忙しい急しいと申すのは外側にいる証拠であるぞ、
気つけて早く中心に飛び込めよ、
真ん中結構、日本は真ん中の国であるぞ、
日本精神は真ん中精神、
末代動かぬ精神であるぞ、
三千世界の大掃除であるから、
掃除するには、掃除する道具もいるぞ、
人民もいるぞ、
今の有様では、いつまで経っても掃除はできん、
益々穢れるばかりじゃ、
一刻も早く日本から、
日本を足場として最後の大掃除を始めて下されよ。
神が致すのでは人民が可哀想だから、
『くどく』申しているのぞ。

 

碧玉之巻〜第14帖  →超訳

頭と尾尻だけでは何もできん、
化物(ばけもの)じゃ。
八尾八(かしら)の時代は済んだのであるぞ、
「かんじん」の胴体がないぞ、
日本が胴体であるぞ、
日本をどこに忘れて来たのか、
自分でもわかるまいがな、
尻の毛まで抜かれた化物の姿、
鏡に映して見るがよい、
鏡は神示(ふで)じゃと早くから知らせてあろうがな。

 

碧玉之巻〜第15帖  →超訳

五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。
六六六がマコトのミロクの世であるなれど、
六六六では動きないぞ、
六六六は天地人の大和の姿であるなれど、
動きがないからそのままでは弥栄(いやさか)せんのじゃ、
666となりまた六六六とならねばならんぞ、
新しき世の姿、よく心得よ。

 

碧玉之巻〜第16帖  →超訳

(めくら)の人民がいくら集まって相談すればとて、
すればするほどヤミとなるのじゃ。
行き詰まって「上げも下ろしも」できんことになるのじゃぞ、
すべてを数だけで決め様とするから悪平等となるのじゃ、
(めくら)をいくら並べてみても何もならん、
早く改心せよ、
新しきタマの選挙があるでないか。

 

碧玉之巻〜第17帖  →超訳

はじめに(へき)(ぎょく)を並べて下されよ、
次に赤玉、次に赤黄玉、次に黄赤玉、次に黄玉、次に黄青玉、次に青黄玉、
次に青玉、次に青赤玉、次に赤青玉、次に紫水晶、合わせて十一玉、
この巻、(へき)(ぎょく)の巻であるぞ。

 

碧玉之巻〜第18帖  →超訳

氷と水と水蒸気じゃと申してあろうがな、
同じであって違うのぞと知らせてあろう、
地には地の、天には天の、
神には神の、人民には人民の、
動物には動物の、植物には植物の、
それぞれの法則があり、秩序があるのであるぞ、
霊界に起こったことが現界に映ると申しても そのまま映るのではないぞ、
また物質界が霊界に反影すると申しても そのままに反影するのでないぞ、
すべてが太神の中での動きであるから、
喜びが法則となり秩序となって統一されていくのであるぞ、
それをフトマニと申すのぞ、
太神の歓喜から生まれたものであるが、
太神もその法則、秩序、統一性をやぶることはできない大宇宙の鉄則であるぞ、
鉄則ではあるが、無限角度をもつ球であるから、
いかようも変化して誤らない、
摩邇(まに)の球とも申すのであるぞ。
その鉄則は第一段階から第二段階に、
第二段階から第三段階にと、
絶えず完成から超完成に向かって弥栄(いやさか)するのであるぞ。
弥栄(いやさか)すればこそ、呼吸し、脈拍し、進展して止まらないのであるぞ。
このことわかれば、
次の世のあり方の根本がアリヤカとなるのであるぞ。

 

碧玉之巻〜第19帖  →超訳

百は九十九によって(はたら)き、
五十は四十九によって、
二十は十九によって(はたら)くのであるぞ、
この場合、百も五十も二十も、天であり、始めであるぞ、
(はたら)きは地の現れ方であるぞ、
フトマニとは二十の(たま)であり、
十九は常立(とこたち)であるぞ、
根本の宮は二十年毎に新しく致さねばならん、
十九年過ぎて二十年目であるぞ。
地上的考え方で二十年を一まわりと考えているが、
十九年で一まわりするのであるぞ、
いろは(母)の姿見よ。

記:1961年5月6日