隆さん追悼山行

「夜叉神峠へ・・・・・衝撃的な原さんの最期!」

(前書き)
私は何年か前からか、毎週月曜日は酒を一滴も飲まない日、と決めた。元来酒好きな私としては結構つらい決断だったが・・・・・。肝臓を休める日、いわゆる休肝日だ。
それは年令と共に増加するコレステロールと尿酸値が高くなって、うるさい奥方の助言もあって決めた事だが、その頃から酒量が増えて来た事もあり、少しセーブする必要があると、自らも決めざるをえない状況でもあった。
しかし、昨年の隆さんの他界と、原さんの衝撃的な最期を目の当たりにした時、この考えが揺らいで、休肝日を返上し、又以前のように月曜日も飲み始めた。私にとって元に戻す事はさして難しい事ではなかった。

人間、つらい事があると「神も仏もないものか・・・」などと良く愚痴をこぼすが、もし人間の”寿命を司る神”が存在するとしたら、この神様は、努力などは全く評価しない、妥協などを許さない精神の持ち主なのだろう。
この二人の男の最期を見た時に、そんな風に思えて仕方がない。それぞれの人間がどうあがこうと、生れ落ちた時に、寿命は決まっていて延ばす事など絶対に出来ないのだと言う事を・・・・。至極当然の事なのだが・・その事を改めて感じさせる出来事であった。

そう思うと、隆さんの場合はどうだったろうか?・・・・。
彼はもともとスマートでカッコよく、若い頃はミツミの女子社員の憧れの的だった。
しかし、結婚するまで浮いた話など聞いたこともなく、今の奥さんと平凡に結婚し、二人の子供を授かり、奥さん共々この二人の子供を愛し、一生懸命働いて、ミツミ電機の総務部長まで昇り詰めた。もしかしたら、がむしゃらに働いた彼は遊んでる暇などなかったのかもしれない。
タバコは若い頃から全くやらず、酒は嗜む程度、我々がドンチャン騒ぎをしている時も、隅の方で静かに笑っているような男だった。
そして、定年を迎えてからは、結構MACの山行にも参加するようになり、サー、これから山を楽しもう、と思っていたに違いない。しかし”悪性リンパ腫”と言う血液の癌に侵されてから、彼の闘病生活が始まった。
病に侵されてから半年くらい過ぎた頃だったろうか、彼からこんな電話が掛かってきたのを昨日のように覚えている。
「美濃さん、俺は何にも悪い事はしていないよ・・・・何で俺だけこんなに苦しまなければいけないんだろう・・・・」と。
その時”全く隆さんの言うとおりだよ・・・・・俺なんかつい最近までタバコは1日30本、酒なんかは酔いつぶれるまで飲むなんて事はしばしばあるよ・・・・・”と言おうと思ったが、何だか申し訳ない気持ちになって、返答を飲み込んでしまった。

原さんとて隆さんと同じ様に、タバコは全くやらず、酒も嗜む程度、そして人一倍健康には気を使っていた。
それには彼の一人息子で重度のダウン症の”小弥ちゃん”と言う存在が大きい事は、我々の山仲間の周知の事であった。
山行を共にした時など、原さんが「美濃さん、今日は少し体調が悪いから、此処で(登山口)スケッチでもして、皆が下山するのを待っているよ」と言ったりすると、そんな事はつい忘れてしまって「原さん、たいした登りじゃないから、一緒に登ろうよ・・・・・」などと言ったりしても、決して登ろうとはしなかった。
原さんは”小弥ちゃん”の事とからめて、時々こんな事を言う「私はネー、小弥太を残して、先に逝く訳には行かないんだよー」と。
しかし、人一倍”生きる”事に執着した二人ではあったが、この「神」は容赦なくあの世とやらに送ったのである。
私の「殺すなら殺してみろ・・・・」みたいな、この「神」への腹立たしさもあって、休肝日を返上したのだが、何ともばかばかしい話ではある。勿論、奥方は私の意志の弱さを叱咤したのは言うまでもない。

(そして夜叉神峠へ)
隆さんの家族(奥さん、息子さん夫婦)を加えた総勢13名の我々”隆さん追悼山行”のメンバーは、2007年12月1日午前11時少し前、元気に夜叉神峠の登山口を出発した。
「この分だと、峠に着いたらあそこ(例の伊吹さんの分骨が埋葬してある木の根元)に隆さんの分骨と打木君愛用の品物を埋葬したら、直ぐ昼食にしよう・・・・」などと思いながら、私はトップで登り始めた。
直ぐ後ろに原さんが続く。
これは結果論だが、今から思ったら何時もの原さんより少し元気が無かったような気もする。特に登りながらしきりに”むね焼け”の事を気にしていた。
あれはもしかしたら”むね焼け”ではなく、心臓の痛みではではなかったのかと・・・・・・。
夜叉神峠の直下の鞍部は木陰から白峰三山が良く見える場所だが、此処ではこの白峰三山をバックに隆さん家族を写真撮影したりしていたが、その約10分後に原さんがこの世から居なくなるなんて、信じろと言う方が無理と言うもんだ。
原さんが突然転倒したのは、峠まで僅か10数メートルあるかないかの登山道だった。そして直ちに覚えたての心配蘇生法を開始したのが凡そ1分後である。一般的に心肺停止状態であっても3分以内にCPR(心配蘇生法)を始めた場合の蘇生率は75%位と言われ、4分後で50%、5分を過ぎると蘇生率は更に落ちるか又は重度の後遺症が残ると言われている。
私はその年の9月に日本赤十字の”水上安全法救助員”の資格を取ってから、僅か3ヶ月での実体験である。
こんなに早く、実際の局面に遭遇しようとは夢にも思っていなかった。原さんを助ける事が出来なかった自分自身をどう責めるべきかとの思いは、それも又夢の中のような出来事で、実感が沸いて来なかった。
心配蘇生法のマニアル通り、心臓マッサージ(胸骨圧迫)30回、マウスツーマウスの人工呼吸を2回、これを繰り返し、繰り返し40分間続けたが、結果的に、原さんはこの世に蘇る事はなかった。
山梨県の防災ヘリが到着して、峠の広場まで原さんを担架に乗せて移動し、ヘリが爆音と共に下降して来る。救急隊員が「引き上げるので危ないから、どいて下さい・・・!」と大声で呶鳴るまで、心配蘇生法を続けた。
「原さん!小弥ちゃんが帰りを待ってるよー!・・・・」と言うような意味のことを大声で呶鳴ったが、ヘリの凄まじいエンジン音で自分の声は全く聞き取る事が出来ない。
それこそ、壮絶なテレビドラマを見ているように、原さんが担架と共に天空に舞い上がって行く。腰に手を当てた時、思わず愛用のデジカメを引き抜いて、昇天して行く原さんを追って、夢中でシャッターを切った。
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(隆さんの埋葬)
山梨県の防災ヘリが飛び去ってしまってから、そのエンジンの爆音の凄まじさもあって、辺りは妙な静けさに包まれた。全員しばし呆然として言葉も無かったが、ネコさんの判断で、まず孝幸さんと吉村さんが搬送先の”甲府中央病院”まで状況を確認する為直ちに下山、残りのもので予定通り隆さんのお骨と打木君愛用の品を埋葬する事にした。
私はお線香などを挙げるときに、周囲の枯れ草などに引火したら大変、との思いで特別に周囲をアルミで囲った手製の”祭壇”を準備して来たのだが、持参した花だけを供えて、埋葬した隆さん&打木君に全員で手を合わせ、直ちに下山を開始した。昼はとっくに過ぎているのだが、食欲はまったく無く、まだ夢を見ているような感じさえする。
登山口に着いたら、パトカーが止まっており、警察官から「先ほどヘリで搬送された方の仲間ですか?人口呼吸をしたのはお宅ですか?」など登山口での簡単な事情聴取があり、「事件性なし・・・・・」など、パトカーの無線電話と警察署本部とのやり取りの中で、「そうですか、検死に病院に向かいましたか・・・・・」などの言葉から、はっきりと原さんの”死”を知る事になった。覚悟はしていた事だが、そこに居た警察官に改めて確認した。その警察官は「本署の検死官が病院から呼び出しがあり、向かったと言う事は、死亡と言う事でしょうね、断定は出来ませんが・・・・・・」などと慎重に言葉を選んではいたが、「矢張り助からなかったか・・・・・・」との思いから、こみ上げてくるものを抑えるのが精一杯で言葉が発する事が出来ない・・・・・・。

(病院での悲しみの対面
事件性がなし、との事でパトカーは既に引き上げていった後、「少しでも口に入れよう」と言う事で、そこで遅い昼飯を食べた後、搬送先の病院に全員で行くのは止めて、とりあえず予定通り今晩の宿である”南アルプス温泉ロッジ”に落ち着き、そこで搬送先の病院の道などを聞いて、ネコさん、飯島さん、私の3人で病院に行くことにした。
途中で先に行っている孝幸さん達に連絡を取りながら、夕闇迫る”甲府中央病院”に着いた。
原さんの遺体はまだ、検査室であろうか、医療機器が置かれている部屋に安置されており、その顔はまったく、苦しんだ様子なども無く、まるで今にも寝息が聞こえてくるような、静かな顔をしていたのが、印象的だった。
つい先ほど調布の自宅から駆けつけた原さんの奥さんと娘さんの旦那さんが我々の控え室に来た。
私は奥さんに「助ける事が出来なくて申し訳ありません・・・・・・・」と小さな声で言うのがやっとだったが、「いろいろありがとう御座いました。主人はまったく苦しんだ様子も無く、大好きだった山で、大好きな山のお仲間に囲まれて、あの世に旅立っていったなんて、なんて幸せな人なんでしょう・・・・」
奥さんからのこの言葉を聴いた時、体中の力が抜けて行くのを感じながら、40分間の人口呼吸での両腕の筋肉痛を始めて実感したが、
自分の腕が未だに、この筋肉痛を覚えているような気がしてならない。
原さんの奥さんたちは病院から遺体を引き取り、その日の内に調布の自宅に向かった。

(その夜の南アルプス温泉ロッジ、そして翌日
我々、病院に行った5人は、原さんの遺体と奥さんに別れを告げて”南アルプス温泉ロッジ”に引き返し、今か今かと待っていた隆さん家族を始め、他の仲間と合流して、既に宴席は準備されていたが、皆箸もつけずに待っていてくれた。原さんの奥さんとのやり取りなどは、携帯であらかじめ連絡してあったので、内容は皆わかっており、「ご苦労様・・・・」の短い言葉の中に万感がこもっている感じだ。
ここから型通り、献杯の音頭の後、予定通り、ネコさんの”隆さんの追悼文”の朗読が始まっ た。   (左のボタンをクリックして下さい)

朗読が終わった後、隆さんの奥さんは涙を浮かべながら、「きっと主人が原さんを呼んでしまったんだわ・・・・・」としきりに気にしていたが・・・・・・・。
「今日はとにかく酔いたいよ、酔いつぶれたいよ、だけど酔えないかも・・・・・・・」などと言いながら、何度も杯を酌み交わして夜が更けていった。
寝て起きたら、昨日の事は夢だった、何てことになったらいいのになァー・・・・・・と何度も思いながら寝つきの悪い眠りに入った。

翌日は何となく昨日の衝撃的な出来事を皆が引きずっており、口数も少なかったが、誰言うとなく、このまま中央高速を調布まで行き、原さん宅を訪ねてみよう。
原さんが防災ヘリで搬送される時には、「これで助かったぞー・・・・」と誰しもが思ったに違いない。
特に病院に行かずに、そのまま”温泉ロッジ”に宿泊した人達は、まだ原さんには本当に「さようなら」を言っていない・・・・・・そんな思いがあったのだろう。
原さん宅は相当取り込んでいて、突然の訪問は迷惑なのでは、との思いもあったが、予想に反しして静かな自宅から奥さんが出迎えてくれて、原さんの遺体が安置してある奥の6畳間に案内してくれた。
原さんの顔は病院で別れた時と全く変わらず、安らかな寝顔をしていた。
「原さん、安らかにお眠りください」と誰もが念じて、2007年12月2日午後3時、原さん宅を後にした。

                                                      2008年2月  美濃






美濃 克己