八ヶ岳日記(7)

・・・・・2000年 冬・・・・・                        

八ヶ岳南麓に山荘を作って始めての冬を迎えた。山荘の冬支度をしなければならない。
薪ストーブの使い方は、大工さんが残して行ってくれた建築の残りの材木で夏の内から何度も練習済で万全であった。あとは薪の調達である。
薪用の材木の準備は出来ていた。
夏の間に、あの”体育会系青森出身37歳独身”の営業マンが、別荘地開発現場で伐採された楢の木を、トラックで運んでくれていた。
その楢を薪にしなければならない。
3年前に脱サラをした弟が、小田原から高根町に移り住んで”小麦畑”と言う手作りパン屋を開業していた。
その弟がやってきてチェーン鋸でアットゆう間に薪の長さに切ってしまい、「使い慣れないとチェーンソーは、危ないから気をつけろよ」とチェーンソーを置いていってくれた。

オーシ!、今度は憧れの薪割りである。
オノが無い、あの金太郎が担いでいるマサカリである。
何度か材木や花の苗などを買いに行ったことがある、富士見町のJマートで斧を見つけた。思ったより全然高いではないか、とブツブツ言いながら買ってきたのであります。斧は6500円だった。
薪割りは子供の頃やった事があった。私が育った四国の田舎では、まだプロパンガスなどは無く炊事やお風呂には、木の枝や薪を使っていた、そう薪割りは子供の仕事のようなものであった。
当時子供は労働力とみなされており、どの家でも子供たちは何か家の手伝いをさせられた。
手伝いの仕事の中では、薪割りは子供たちの人気種目であった。もうこっちのものである。
楽しみながら幸せな気分になっている内に、呆気ないほど早く薪割りは終わった。
そして、ベランダの下に出来た薪の山を見ながらビールを飲んだ。
オーシ!、これでこの冬は大丈夫と自分で納得し、大満足で終わったのである。

冬支度は、まだ有る。
山荘の引越しの時、盛りだくさんの注意事項を管理会社の担当者より伝えられたのだが、特に大事な事だと、しつこく言われた事があった。
冬季の凍結防止のための、水道の水抜きであった。
水抜きは、元栓を締め、台所、トイレ、洗面所、風呂場、に通じる水道管の水を完全に抜く事。特に屋外に設置してある給湯器の水抜きは重要だと、教えられた。
水は、一滴たりとも残してはならない、トイレの水タンクの水も抜き、便器の中に残った水には、不凍液をたっぷり入れておく事。
引渡しは、5月であったので気にもしていなかったのだが、11月を半ばを過ぎると、朝の庭には5センチもの霜柱が出現するようになった。
これはヤバイぞ、”冬季水道水抜きマニュアル”の作成を急がなければならない。
台所や風呂場の蛇口や、給湯器の取り扱い説明書を探し出し、水抜きの方法を調べた。寒冷地用の設備機器の取説には、凍結防止の水抜きの手順が丁寧には書いてあったが、余計な事ばかり書いてあり”もう少しシンプルに書けないの”と言いたくなってしまった。
これを一冊のシンプルなマニュアルにまとめる事にしたのだったが----
.私の、手書き図解付きのマニュアルは、本人以外の人達には、理解しがたいと評判が悪く、結局は、見兼ねた娘の旦那さんが仕上げてくれた。
かくしてパソコン画像付きの立派なマニュアルが完成したのだった。

サア!、冬なんか怖くない、何時でも来い!!!。

本格的な冬がやってきました。2001年正月、私達家族は山荘で正月を迎えようと小淵沢にやってきたのです。
ナンダ、ナンダ、この寒さは、これはただ事ではないぞ。
八ヶ岳おろしの強風が吹き抜け、嵐のような日が続くのである。夜バケツに水を張り、ベランダに置くと翌朝は氷の厚さが4〜5センチにもなっているではないか。
寒さは、薪ストーブがある、心配するな!!と薪をバンバン燃やした。
ストーブの扉越に見える炎に感動し、近くの湧き水から取ってきた、ツララの氷でオンザロックと気取って、山の正月は幸せに過ぎて行くのでした。
しかし、5日間も経った時、一冬分として用意してあったあの薪が早くも底をつく始末に見舞われたのである。
「薪はそんなに要るのか」と、慌てて薪屋さんを探し回り、、甲斐小泉駅近くの雑貨屋で薪を売っているのを見つけた。
取り敢えず、車のトランクに入るだけの薪を買って来た、一束500円である。

この雑貨屋は、結構いい加減な店で、次に買いに行った時は奥さんが出てきて「一束700円です」と乱暴に言うではないか。
「すいません、前の時は500円だったんですけど」と、こっちはよそ者だから、少し遠慮がちにそれでもシッカリ抗議した。
「お父さん!」奥さんはお父さんを呼びに店の奥に行き、出てきたお父さんは「450円でいいよ」、どうなっているのこの店は、と思ったが、でも安くしてくれたから良いか、と仕方なく、又薪を買って帰ってきたのでした。あの”オババ”メが!!

だが、晴れた日の、朝日に染まる甲斐駒ケ岳、アサヨ峯そして鳳凰三山と続く雪の南アルプスの展望、振り向けば網笠、権現、三つ頭、八ヶ岳の山容は、ただ素晴らしく私たちは、ここに山荘を持った幸せをかみしめるのだった。

正月も過ぎ、2月になると、何十年ぶりかと言う大雪が何回も降った。
「雪の山荘に行きたい」と心が騒いだ。「道の除雪が出来ていないので来ない方がいいですよ」と言う管理事務所の忠告を無視して出かけることにした。
途中、スパテリオ辺りからタイヤチェーンを巻き、やっとの事で山荘にたどり着いた。
「オオー、これはすごい」とおよそ40センチも残っている雪に驚いたり、嬉しくなったりしながら、始めての”本格的雪掻き”に挑戦する事になったのでした。
半日かけて駐車場の雪をどけ、今度は奥方様の要望にお答えし”かまくら”作りに挑戦となり、これも思ったよりズッと立派に完成した。
そして、替わり替わりに雪の穴に入り、夜にはキャンドルを灯し、雪国のお祭りの気分で記念写真に収まったのでした。

翌日は、良く晴れて山靴にスパッツをつけ信玄棒道まで散歩を楽しむ事になった。雪は思ったより深く、山靴は一歩ごとに雪を踏み抜き膝まで潜り、まるで冬山のラッセルである。
そして、やっと踏み跡を見つけ、たどって行くとだんだん林の奥に入って行くではないか。
様子が少しおかしいと気づき、良くみると黒い糞のような物が所々に固まって落ちていた。「アアー、これは獣道だ」。
そうです、それは鹿の通り道だったのです。「鹿は移動する時何時も同じ道を通るのです」甚平便りの、荒川甚平が言っていたのを思い出した。
大雪で、餌が不足し、鹿達は餌を求めて山から下りてきたのであった。
気をつけて良く見ると獣道は、山の方から里の方へ伸びているのである。辺りには、皮をかじられた木が沢山あり、「キミらも苦労しているな、ガンバレ・・・・」と急に鹿の友達になって散歩も終わった。

鹿の話が続く。
5月の新緑の頃、山荘にやって来た時、近所の林の中で夏だけシクラメンの栽培をやっている人と親しくなった。
その時私は、山荘の庭の土止めにする木が欲しくて近くの林の中に入っていった。
近くにチェーン鋸の音がしていたので、林の中を進み30歳半ばの感じの作業服を着たその人に近づき、コッチはちょっと下心があるものだから、「今日は!」とやや元気よく声を掛けた。
「今日は!、今日は暖かい良い日ですね」と、アチラからは、ニコニコ笑って穏やかな返事が返ってきた。
「ここはお宅の林ですか、木を一本頂けませんか」、「どの木ですか、ここは防風林なんですよ」

彼は、あきるの市で花の栽培農家をやっている人だった。夏の間だけシクラメンの鉢を気候の良いこの八ヶ岳山麓に移すのだそうだ。
ここの、海抜1000メートルの気温と湿気の少ない空気が、シクラメンの球根を引き締めクリスマスの頃に、良い花をつけるのだそうです。
あきるの市の農園では、アジサイの出荷で忙しい盛りなのですが、この冬の大雪で痛んだ花台の修理に来ていたのでした。
一人での山仕事に退屈していたらしく、話が弾み・・・・・・。
「この冬の大雪で、鹿はこの辺りまで下りて来たんですね。昨日は一匹、花台の下で死んでいるのを見つけたんですよ」
彼は、土を掘って埋めてやったそうですが、今朝見ると何者かが掘り返しているいるそうです。「犬か何かでしょう、仕方がないので、先ほど火葬にしてやりました」、ひとしきり話が弾み、「土止め用なら松が良いですよ、油があるからなかなか腐りませんから」と赤松を切り倒し枝を落としてくれた。
結局、その日の収穫、松ノ木2本を頂いて春の庭仕事の準備も出来たのでした。
いい人と友達になれたし、次に何か礼をしなければならない。

山荘周辺は冬から春へと移り変わり、                                     
       残雪の南アルプス甲斐駒ケ岳の輝き、            
       雑木林の、白、紫、薄緑、
       萌えるような木々の芽吹き、
       鮮やかな落葉松の新緑、
    すべてが新鮮で感動的だった。
鹿も、今は山に帰り美味しい草や、木の芽を食べて元気に山の春を過ごしているのだろうか・・・・・・。

                                                        2000年冬 そして春へ

稲垣 忠